ポイ捨にだってマナーが・・? こんな皮肉な短歌のひとつも・・・

 毎朝の日課にしている挨拶&ごみ拾い活動も7年目に入ったが、売られている「ごみ」が無くなるわけもなく・・。路上にポイ捨てされるごみを、景観や風紀の改善のために「決められた集積所に移動」しているだけの私の活動だが、、、それでも、ポイ捨てにだってマナーがあるだろう!?なんて、妙な気持ちになってくる(^^);

☆ポイ捨ての マナーも失せて 皮肉歌 ガムは包んで タバコは消して

(せめて、ガムは包んで・・・「ペッっ」と吐き出したガムが多いこと。特に駅前は、吸殻よりダントツに多い・・・。タバコも、路上に火がついたまま捨て去ったものがほとんど・・・はぁ~・・)

☆ポイ捨ての マナーも失せて 皮肉歌 タバコ紙くず 缶に入れまじ

(空き缶にたばこの吸い殻や紙くずを詰め込んだものも多い・・・これでは、リサイクルするほうも大変・・・はぁ~・・・)

☆ポイ捨ての マナーも失せて 皮肉歌 糞は路端 オムツまるめて

(玄関先や、道路の真ん中にペットのフン・・・また、人間の紙おむつも、丸めてあればまだいいが、汚物の見えるようなポイ捨ては・・・はぁ・・・)

おわり

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(早朝の風景)第9回ペットボトルキャップ回収 2月3日

 5時半に目覚まし時計が鳴り、それでも、一緒に手伝ってくれる妻が起きてくるまでは、と言い訳を見つけて温かい布団から出るのを躊躇(ためら)っていると、時間に正確な妻が起きて来るのが聞えた。意を決して腹筋に力を入れて半身を起こし、その勢いで立ちあがり、布団もそのままにしてさっさと作業着に着替え、軍手とハサミ、それに回収用トン袋を二つ用意して外に出た。
 2月になったとはいえ、まだ真っ暗だが、空を見上げると星が見える。一昨日降った雪は、もう跡形もない。小型の携帯用サーチライトを車庫の袖にくくりつけて作業開始である。
 車庫の車の鼻先にトン袋を広げ、車の後ろに壁となって積み上げられたキャップが詰まった袋を運び出しては、ハサミで口を切ってトン袋に移していく。これだけの作業なら、街路灯の明かりで十分なのだが、袋を逆さまにして中身を広げて見ると、アルミキャップあり、栓あり、プルタブあり、ゴミがあり・・で、それらを選りわけながらの作業にはライトが必要なのである。
 寒いせいもあるが、既にこの作業に慣れた熟年夫婦二人は、寡黙である。ときどき、思いもよらぬものが混じっていると、小さな奇声を発する妻の、後に続く小言に同調して吸収してやるのが私のもう一つの役目だ。多少の難儀はあるが、街の方々がこのような足元の小事をしてくれることは、感謝に値するとともに、私にとってもこの上ない喜びなのである。
 花粉の攻撃が始まるこの時期、マスクをして作業する妻の表情の総ては見えないが、今日は機嫌がいいようである。しかし、二人はあくまでも寡黙である。
 6時をとうに過ぎ、2袋目を広げたころ、昨夜妻が声をかけていた正月に27歳になったばかりの長男の大ちゃんがようやく起きて来て手伝ってくれた。彼も、毎回遅刻はするが、良く手伝ってくれる。一人増えると一気にはかがいく。6時半を回った頃、作業終了。今回は2袋だが、総量は1.4か1.5というところ。トラック回収の方にお小言を頂戴することを知っている妻のお小言を、ここでも吸い取る。
 妻に感謝、大ちゃんに感謝。街の方々に感謝。そして、地球に感謝。
 いつものお出かけ時刻を過ぎてしまったので、今日の朝の活動は中止にして、そのまま出勤することにした。
シャワーを浴びようとして脱衣場に行くと長女のみっちゃんが起きてきた。「おはよう!」2日後に公立高校の入学試験を控えた彼女の機嫌も良いようだ。「昨日はお爺ちゃんの命日だったんだけど、お線香をあげた?」あわてて仏壇に向かうみっちゃん。その仏壇のある奥の和室で、目覚めたのであろう87歳になる認知症の進んだ私の母の世話をやく妻の声が聞える。
 さあ、今日は節分。そしていつものとおりのいい日だ!「鬼は外、福は内~!」
おわり

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自主上映の仲間を探しています。映画「降りてゆく生き方」

 ひたすら頂上を見ながら上る生き方がいつの間にか刷り込まれてしまっていないでしょうか?
より良い成績を、よりよい学校へ、よりよい会社へ、よりよい肩書きを、よりよい収入を、よりよい生活を・・・・。
そんな呪文を繰り返し聞かされ、それを疑問とも思わずにひたすら上る・・・
 しかし頂上は一向に近づかず、体力は消耗し、沢山の敵をつくり、あれやこれやと比べ、理屈を並べて言い訳をする。
成功者・勝ち組と言われ地位・名誉・お金を得た人間を羨(うらや)み、夢見て真似してみるが、とどのつまり嫉(ねた)みにしかならない。よりも、よりも、と競争しているのに、結局「人並み」を目指して生きている自分がいる。
 一方で「人並み」マーケットに向けて膨大な「商品」が開発されるが、その陰では「よりも、よりも」心理と経済原理によって、商品は本来の目的を全うする前に「ごみ」となって大量に置き去りにされ、目に見えないところで自分の足元を脅かす。
 いま、「自分の生き方」が大切なのではないでしょうか。上を目指し、人並みを目指すのではない「自分の生き方」。上る足を止め、思い切って振り返り、上って来た道の遥か向こうの下界を透き通ったこころでゆったりと見下ろした時、そこに見えるもの・・・それが自分の原点であり、人間はもちろん、自然やその他との「関わり」や「つながり」のなかで「生かされて」きた裸の自分がそこにいるのではないでしょうか。「自分の生き方」・・何に「感謝」するのか、誰かに「勝つ必要」があるのか、「つながり」とは・・・
 ここに「降りてゆく生き方」を提案します。
映画「降りてゆく生き方」は、一般の劇場では公開されません。またビデオ、DVDになることもありません。全く新しい手法を使い、広く、深く浸透することが願いなのです。その手法とは「つながり」です。仲間が集まり、自主上映という形で広めてゆく。千葉市で映画「降りてゆく生き方」の自主上映に協力してくれる仲間を探しています。

映画「降りてゆく生き方」主演:武田鉄矢 公式ホームページ http://www.nippon-p.org/mov.html
呼びかけ人 松ケ丘GONET(ごみゼロネット)代表 五十嵐秀雄 e-mail igarashi@matugaoka.jp

ご連絡をお待ちしています。五十嵐

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里山哀歌・・・2010年1月17日

 ある資産家のご遺族が千葉市に寄付したという広大な山林で、里山保全の一環として住民と行政が一体となり、自然公園作りに取り組んでいます。既に一部ではめだか池や田んぼを造成してお米を収穫するなど、大きな成果を上げています。(2009年6月19日、NHK「ご近所の底力 環境Special」でも紹介されました。)沢山の地元住民がボランティアで協力していていますが、鬱蒼(うっそう)として気味悪ささえ漂っていた雑木林が、自然の原型を残したまま自分たちの手で美しい自然公園に生まれ変わっていく姿を見ると、一様に大きな達成感と満足感が得られています。
 さて、写真は2010年1月17日(日)の作業で、現場から出てきた不法投棄物の山です。空き缶や瓶は言うに及ばず、テレビ、洗濯機、電子レンジ、カーペット、バイク、タイヤ、自転車、ガスコンロ、便器、廃材、雑誌、得体のしれないものなど・・・。長年放置されていたため、半ば土中に埋まったものを掘り出さなければなりませんでしたが、作業をしているうちにふとした疑問が湧いてきました。金属やガラス、プラスチック、ゴムなどの素材でできていると思われるそれらの投棄物は、掘り起こしてみれば、ほとんど劣化や腐食していないのです。自分の専門外の、実に単純な疑問ですが、総てこの地球の自然界に存在する物質を原料として作り出したものであるのは確かなのに、その地球の土には容易に戻らないのでしょうか? 鉱物、化石燃料、動植物など(あるいはその成分)を材料にして化学処理したにしろ、あくまでも自然界に存在したものです。それらが容易に元に戻らないように「化工」した科学とはいったいなんだろう???と考えてしまいました。
 「経済」という人類の作りだした最大にして最悪であるが不可避の矛盾構造のなかで、科学によって生成された我々人間の為だけの道具は、それを経済的に所有した人間の目的が潰(つい)えると、「ごみ」という名前に変えられて邪魔者になってしまうのです。しかも人類は、作りだすことはしても、それを元に戻すことは未だに考えていません。
 <<「経済の矛盾構造」とはなにか。目に見えない人間の「欲望・快楽・傲慢」のために自然界の物質を採取・化工して「目に見える物」を作って、お金を媒介として売って(買って)、それを使う過程でまた別の物を生みだして、そしてそれらが目に見えない目的を達成できなくなると、「目に見える物」だけが「ごみ」という名前で地球に放置される。科学に支えられた経済はそれ自身、最早(もはや)人間にはコントロール不能だが、それでも人間の飽くなき欲望によって膨張を続ける。そして「目に見えるが、元に戻らないもの」だけが増え続ける。地球は唯一、人間の作り出していない目に見えるものであり、限られた器である。目に見える限られた器に、人間が作り出した目に見える「ごみ」が増え続けるとどうなるか。答えは「破綻・破滅」である。「ごみ」や「環境問題」ですらビジネスとして「経済」に取り込む動きがあるが、それがまた「ごみ」を生みだす。経済は破綻するために成長(膨張)するという構造的矛盾を抱えているのです>>
 地球は、それらを元に戻すことを知らないのです。(あるいは、人間の業(ごう)が究極まで膨らんだ果てが【神】ならば、その神が全く別の形で「元に戻す」のかもしれませんが・・)
 我々人類は、いまこそ人類しかできないことを成すべきです。そしてそれは、人類の為、などと曖昧なものではなく、自分の為、自分の足元の事、でいいのです。どうか・・・・
一首<元テレビ 山野にありて 朽ちもせず 映すは人の 後先の路>(おわり)

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風が吹けばおけ屋がもうかる・・・そんなの関係ねぇ♪~・・か?

 「風が吹けば桶屋がもうかる」という3段論法を知る方も多いと思います。風が吹き埃が舞い、人が目を悪くし三味線弾きが増え、三味線作りの為に猫が減り、その為にネズミが増え風呂桶をかじる、といった論法です。確率からいうとほとんど「こじつけ」で、現代にあっては当てはまらない部分もありますが、なるほど面白い理論の展開だな、と思います。
 さて、この例は極端かもしれませんが、理屈の上では「風」と「桶屋」の「かかわり」が「無い」わけでなく、ほんの僅かではあるが「かかわり」がある、ということでしょう。
 それでは、これはどうでしょう。
<自宅の近所で前を歩く人が歩行者信号を無視して、車に撥ねられて大けがをしたが、自分は信号を守ったので無事であった。救急車を呼んだが、赤の他人なのでそれ以上の「かかわり」は無く、無関係である>
 これについては、何の「かかわり」もないと考える人がほとんでしょう。しかし、もし次のように間接的に「かかわり」があったら、どうでしょう。
<自分の子どもを含む多くの子ども達が、普段その人が度々信号無視をするのを見ていた。やがて自分の子どもは他の多くの大人や友達が信号無視をするのを見ているうちに、自分もやっていいんだと思うようになり、あるとき信号を無視して事故に遭ってしまった>
 これは、自分の子どもが不運なのであって、信号を無視する大人たちとは何の「かかわり」も関係も無い、と言い切れるでしょうか?もし大人達がきちんと信号を守り、手本となっていれば、自分の子どもは事故に遭うこも無かったのでは、と考えられないでしょうか?先の、桶屋の話よりは実に単純な論法ですが、その分発生する確率は高いのです。
 さて、このような大人が悪い例はいくらでも考えられます。しかしなにか行動するときにいちいち「もし~、~れば、~たら、~かもしれない」などと深く考えすぎると、身動きが取れなくなってしまうでしょう。しかも人間の一生のなかでは自分にとって「悪いかかわり」もあれば「良いかかわり」もあります。考えてみれば先々どう展開するか分からない「かかわり」が一番多いのです。
 とはいえ、現実として(私の中では真理として)人間社会を含め、地球というものは総て「かかわり」でできているのです。もちろん、それは目に見えるものではありません。人は父親と母親の「かかわり」があって初めて生まれ得ます。その父親や母親はさらにその親が、またさらにその祖先が・・・と、総てが「かかわり」です。生まれた後はというと、赤ん坊や子どものうちは他の誰かに「かかわって」面倒を見てもらわないと命さえ絶えてしまうでしょう。さらに大切なことは、「かかわる」のは人間だけではない、ということです。例えば毎日の「食事」ですが、穀類や野菜があり、お肉があり、魚があり・・・とこれらは総て他の生き物との「かかわり」です。もっと根本的な「かかわり」として「空気」や「水」、「太陽の光」だって、道端の石でさえ、総て「かかわり」なのです。
 このように人間を含む総てのものが「かかわって」存在しています。さらに「かかわり」は人間を始めとした生物の一時の命をも超えます。一人の人間が「生きている」間に成した「かかわり」は、親から子への「かかわり」をはじめ、他の人々、動植物、果ては空気や水、太陽にいたるまで、一人・ひとつの例外も無く、影響を与え合うのです。
 なにを当たり前のことを小難しく・・と言われるかもしれませんが、「かかわり」(を考えること)がどんどん希薄になっているといわれる現代です。大切なのはこの目に見えない「かかわり」こそが「実体」であり「真理」であると認め、自分の「生き方」の根底に据え置くということでしょう。簡単にいえば、お金などの形がある、目に見えるものは実は価値あるものではなく、本当の価値は目に見えない「かかわり」の中にこそ存在する、ということでしょう。自分は「一人」ではなく、今、一時の命があり、いま一時の挙動も何かに「かかわる」。そして一時の命は「かかわり」によって永久に宇宙規模で繋がってゆく。ならば、「今」が良ければいい、「自分だけ」が良ければいい、自分には「関係ない」・・として生きるのではなく、「かかわって」「感動」するこころを持ち、繋がる命に「感謝」し、「多方面への影響」を考えて生きるべきではないでしょうか。おわり

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七草の 粥の温みは 厨人(くりやびと) 草木のいのち いただくこころ

 ( ^^) _U~~七草粥が大好きです。最近は季節感が薄れ寂しいことですが、このような伝統が廃れないことを願っています。七草の7番目に出てくる「すずしろ」ですが、これは「大根」のことだそうで、私はこの大根の葉っぱの部分が特に好きですね。妻も新鮮な葉っぱ付きの大根を特に選んでいるようです。細かく刻んで、塩もみして、炊きたてのご飯に載せて食べると・・・そりゃもう\(^o^)/・・・いつも食べる人たちの健康を気遣って食事の世話をしてくれる人がいます。そして、その食材となる植物や動物の命があります。大根の葉っぱを捨てる人もあるようですが、それこそ「もったいない」ですよ~(^o^)。いったい何をいただくのか。「いただきます」のこころを、今一度考えてみたいですね(^o^)

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今、改めて「日本」を愛したい・・万葉集でも勉強してみるか( ^^) _U~~

2010年 元旦 都川の初日

2010年 元旦 都川の初日

2010年 菜の花が見た初日

2010年 元旦 都川の菜の花が見た初日

 2010年、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。>>「私は日本人であり、それを誇りに思い、日本を愛している」・・たったこれだけのことを、今の日本人のどれだけの人が言えるでしょうか。こんなことを言う私だって、日本以外の国をよく知っているわけではなく、外国の知識といえば学校教育から始まり、今にあってはマスメディアの一方通行の情報の聞きかじりが元になるものであり、下手をすれば小学生にだって敵わないと思っています。しかし、そんな私でも自分を含む今の日本人に言いたくて言いたくて仕方がないことがあるので、ここに愚痴をこぼしてみることにしました。
 私は自分の外国無知を棚に上げてでも「日本人の心根」は世界の模範となり得る素晴らしいもの、と信じています。私自身は無宗教ですが、「日本人の心根」は決して何かの経典に記されているものではなく、宗教的なものでもありません。また高名な哲学者による思想や主義・主張でもありません。あくまでも日本人一人ひとりの(自身が気付いてもいない)今となっては奥底に眠っている心根なのです。この心根が日本人だけでなく人類の普遍的真理として世界中に広がれば、今、人類に降りかかる様々な問題(環境、戦争、飢餓、経済など)も解決すると信じています。
 さて、その「日本人の心根」とはなんでしょうか。
それには日本の自然環境と、日本に古くから伝わる文化、伝統、情緒、宗教観などが深く係わっています。というより、結論的ですがこれらが「日本人の心根」の本質だと考えています。
 第一に、日本の自然環境の豊かさと、その自然に対して畏敬の念を抱き、合掌することができる心です。日本人の生み出した俳句や短歌などがその証明でしょう。自然の豊かさと人間の暮らし、そこに儒教・仏教・神道などが深く交わり、万物に対する無常観として受け入れられ、長い歴史の中で無意識のうちに心の奥底に根ざしたのです。たとえば虫の音や、川のせせらぎ、木々の息吹、野の花のささやき、雨音、雷鳴、果ては深閑とした静寂にまで「音」を感じるような豊かな心があるのです。木々の葉一枚にさえ、己の人生や命を重ね見ることができる感性を持ち合わせているのです。それは他のどの国を見ても稀有な、儚い命を思いやる優しい感性です。日本人は自己の一個体の命を超えて、万物に対して有限の命を認め、その命が総て繋がりを持っていることを、理屈を超えた真理として守り伝えてきたのです。総ての命の儚さを受入れてこそ、だからこそ今を輝くことができる、そんな心根です。
 第二に、お金を賤しいものと見る心です。先のように、自然を愛し、その無常観を自らの命と重ねる心根がありますから、お金などの物質文化に強く執着しないのです。命の儚さ故の尊さが心に根ざしていますから、お金のようにそれ自体なんらの変化もしない無機質なものに、価値を見出さない心根です。
 第三に、弱く、儚いものに対するあわれみ、いたわり、己の命とそれらを重ねて感じることができる心です。弱い者に強く接することは恥ずべきこと、という心根です。
 さて、この三つの心根が、日本人の心の奥底に「眠って」いるのです。残念ながら、ヨーロッパに巻き起こった自由・平等思想と産業革命は「経済至上主義」「論理至上主義」となって人類の致命的欠陥(「自由・平等」と言いながら結局は「不自由・不平等」を好み、慾得を抑えられない)を突き、明治維新以降の日本人のこころを蝕み、誇るべき心根は少しずつ眠ってしまいました。そして外国と同じ土俵に上げられてしまった日本国民は慾得に駆られ、悲惨な戦争を引き起こしました。結果、敗戦国としてアメリカにほぼ統治されたと言っていい時代があった為、日本人の「心根の眠り」はさらに深いものになってしまいました。
 ここで、民主主義や資本主義の根底にある自由・平等の考え方を否定しなければなりません。そもそも、命あるものに自由も平等も無いのです(別に封建制や独裁制、全体主義、軍国主義、社会主義、共産主義を擁護するつもりは毛頭ありません)。人間には本来、自由と平等はあり得ない(というより、それらはそもそも人間には実現不可能で、両立もしない)と考えます。
 相当な誤解を生みかねないこの考えですが、その根拠を説明します。
 まず「自由」についてですが、一般的には「自由は良いこと」「目指すべきもの」と考えられているようです。ところがこの「自由」が曲者です。「さあ、人間は皆自由です。生きるために何でもしていいのです。」と言われたら、どうしますか?その瞬間おそらく、あなたはその場に立ち尽くしてしまうでしょう。それどころか、向こうから歩いてくる人間が、自分を殺そうと考えているのではないか、という恐怖すら湧いて来るでしょう。そうです、皆が「自由」になった途端そこは「疑心暗鬼」と「弱肉強食」の獣の世界になってしまいます。自由であることは、己の命の保全から、衣食住はもちろん、生きる上での総てのことを自分一人で考え、行動しなければならないということなのです。そしてそれが「不可能」であることは容易に想像がつくでしょう。そこには必然的に「不自由」と同義の「ルール」と「束縛」が必要(望まれる)になってくるのです。人間というものは「自由な世界」では「獣」と同じでしかないのです(獣だって自由ではないですね)。例えば、青信号を待つのは不自由と考えたとしましょう。車がほとんど通らない田舎道なら別ですが、ひっきりなしに飛び交う車の間隙を縫って命をかけて(自由に)向こうに渡るよりも、機械的に変わる信号を待って(不自由)一定のルール(不自由)のもとに安全に渡った方が「楽」なのです。もうひとつ、「義務教育は不自由」と考えたとしましょう。それが無くなったとたん「自由」かもしれません。おそらく商魂たくましく沢山の「教育サービス」が溢れることになるでしょうから、我が子の特性を見極め、定まらない対価を払い、それらを「自由」に選ぶことの難しさに耐えきれなくなり、一定年齢になったら小学校、中学校で勉強する、と決められた「不自由」のほうが、如何に楽かわかるでしょう。ついでに、自由と自由は必ずぶつかります。例えば知る自由は隠す自由と、言う自由は聞かない自由と、見せる自由は見ない自由と、選択の自由は排除する自由と・・・厭になりますね。
 次に「平等」についてです。「平等」もよく言われる「正しくて良いこと」です。しかし、そもそも人間は生まれたときから「平等」ではありません。まず、男と女が違います。身体の作りが違い、体力も違う。女だけが子どもを産む、のは平等でしょうか?それから、大きさ、が違います。大きな人間は沢山の空気を吸う、のは平等でしょうか?お金のある家に生まれた子どもと、そうでない子どもは平等でしょうか?A小学校とB小学校に行く子どもは平等でしょうか?所得が多いほど税金が高いのは平等でしょうか?消費税率が一律なのは平等でしょうか?・・・こんな理屈を言っている自分が嫌になるのでこの辺で止めておきます。
 そして「自由」と「平等」の両立についてです。「自由」に大学を選び「自由」に勉強して「自由」に職業に就いたら、給料が「不平等」だった。「自由」に働いて沢山のお金を稼いだら、そうでない人と比べて「不平等」な沢山の税金を取られた。
 どうでしょう。これは屁理屈ではなく「現実」だということがおわかりでしょう。このような曖昧で実現不可能な「自由・平等」の上に成り立った資本主義・民主主義とはいったい何者でしょうか?
 何が言いたいか・・・環境問題・教育問題など現在、世界中の資本主義・民主主義国(そうでない国が良いというのではありません)が抱えている問題はこの資本主義・民主主義と、それを支える曖昧で実現不可能な自由と平等の概念、誤った論理によってもたらされたものだと考えます。(ただし、正しい精神にコントロールされた論理は必要であると考えます)。
 長くなりましたが、まとめます。
 論理に支えられたお金至上主義では、世の中が荒廃する一方になります。隣にいる人間が信用できなくなり、野に咲く花や、美しいもの、小さいもの、弱いものに心が震えなくなるのです。自由と平等という概念は必要ですが、それを論理で成り立たせようとしてはいけません。逆に非論理(文化・伝統・情緒)をしっかりと身につけ、自由と平等を反面(生き物にはあり得ない)として捉え、不自由、不平等を無常観に置き換え、当然のこととして生きる人生観を養い、その上に論理を教育によって積み上げるのです。それには古来の文化や伝統に触れ、学び、「祖国日本」を知り、「日本人の心根」を今一度呼び覚まし、今度は歴史上の失敗に学んで、不自由さと慾得を真の自由と平等(無常観)で克服しなければならないのです。その為に、家庭や地域では文化・伝統・思想・宗教から情緒を育み、学校では論理・科学・歴史・芸術・道徳を教えるべきだと考えて已みません。

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<かぶと虫牧場>いのちの繋がりと循環~ごみ削減

 2005年にGONETと(当時の)松ケ丘地区の青少年相談員の企画として「かぶと虫牧場」が開設され、5年、5回目になりました。毎年20人前後の子どもたちが参加してくれ、細々ですが大きな意義を持つ活動だと思っています。今年も(12月13日)後を継いでくれた青少年相談員の方々の協力により無事終了しました。
 毎年この時期になると、公園や街のあちこちで落ち葉を掃く姿をみかけます。千葉駅前ロータリーなども沢山の植え込みがありますが、毎朝掃除をしている方々のボヤキを聞いていると、やはり落ち葉は邪魔者のようです。これらの落ち葉は、ほとんどがゴミとして捨てられるようです。都市計画に則り景観を整える為に植えられた市中の木々たちですが、多くは足元がコンクリートやアスファルトで固められてしまっています。春から夏にかけては豊かな緑で、秋になれば其々の色に染まって人々を癒してくれる木々たち。最近では、冬に備えて葉を落とし、しばしの休息と言いたい木々に、煌びやかなイルミネーションを無理やりに着せる光景も当たり前になってしまいました。
 さて、この活動に大きな意義があると言ったのは、この「落ち葉」は「ごみ」という固定概念と、環境問題はまさに直結し、子ども達の未来にとって非常に重要だからです。先日、中学校で欅の落ち葉を掃き集めていた生徒に尋ねてみました。「この落ち葉はどうなると思う?」すると、「ごみじゃないんですか」と返ってきた。そう、子どもたちにとって掃き集めた落ち葉の行く末などはどうでもよいのが普通なのです。しかし、理科の授業で「光合成」といえば誰でも知っている植物の営みです。その結果生み出される酸素が、人間にとって不可欠であることも当然誰でも知っています。ここまでなら、大切なのは枝についている間の生きた葉であって、落ち葉ではない、と切り返されるでしょう。すると落ち葉はやはり邪魔者で、ごみなのでしょうか。いえいえ、ここで、かぶと虫や森の虫たち、微生物の出番なのです。
 こういった森の生き物たちの生きるための食物はなんでしょうか。そう、それが落ち葉が地上(コンクリートではなく土の上)に落ち、土の上で朽ちた状態(腐葉土)なのです。かぶと虫の成虫は樹液を吸いながら夏を過ごし、交尾をし、やがて卵を産み一生を終えます。親は卵から孵化した幼虫たちが食べ物に不自由しないように、食物となる広葉樹が沢山ある森を探し、土の中に卵を産むのです。そして孵化した幼虫はせっせと腐葉土を食べて冬を越し、春が過ぎ、初夏の頃までに大きく丸々と太ります。やがて蛹(さなぎ)となり、夏が来ると脱皮して成虫となって飛び立っていくのです。驚くことに、成虫になっても生まれた場所は憶えていて、そこが次の子孫の生育に適した場所であれば、戻ってきてそこでまた産卵をするのです。
 さて、ここで重要なことがあります。それは腐葉土をたっぷり食べた幼虫たちの糞です。これが混じった土は植物にとっては栄養価の高い格好の肥料となるのです。もうおわかりでしょう。虫の幼虫たちは木々の落ち葉が腐葉土になったものを食べて育ち、そのお返しとして木々たちには肥料を提供しているのです。この肥料によって木々は春になるとまた若い葉を茂らせ、光合成により夏にはたっぷりと酸素を供給して人間はもちろん、他の動物たちの命を育み、秋には虫たちの為に葉を散らせているのです。これが自然循環です。酸素がなければ生きていけない人間や動物にとって、まさに共存していかなければならない、感謝すべきいのちの営みなのです。
 ところが、人間は己の都合だけで木々を切ったり、植えたりしています。そして、根っこの周りをコンクリートで固め、散った葉っぱはごみとして燃やしてしまいます・・・。
 ごみの削減に取り組んでいる千葉市です。葉っぱはごみではありません。ましてや、千葉市は財政難で、少しでも無駄な出費を抑えなければならないときです。財政難に、わざわざお金をかけて、人間にとっても大切なものを、ごみとして燃やしてしまう・・・。これは悲しいことです。人間は、自分の事だけでなく、自分を生かしてくれている、植物や、動物に感謝して生きなければいけないのです。環境問題の根本として、そのことに気付くことから始めなければなりません。そして、子ども達の未来には、自分の命を育むもっとも大切なものとして、豊かな自然とその美しさに感動し感謝する心が必要なのだということを知ってもらいたいのです。

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大量!8回目キャップ回収

 

11月10日。いや~今回はとにかく多い。これで8回目の回収になりました。いよいよ地域でのペットボトルキャップ回収も定着したかな~って( ^^) ( ^^) \(^o^)/です。地元商店会の協力に感謝、感謝であります。トン袋2個分になりました~。我が家の駐車場には、屋根に届かんばかりに積み上がったキャップの壁がド~~~ン!!地震が来たらわが愛車(軽自動車)もつぶれるな~と、本気で考えていました。前回が9月2日の回収でしたから、約2カ月分です。早朝5時(まだ真っ暗!最初は懐中電灯を点けての作業でした)から、妻と二人で大奮闘!車の後ろにそびえたキャップの山を切り崩し、道路側に設置したトン袋にゴミや異物を分別しながら移す作業は結構な重労働(+_+)。でも、これで地球が少しでも喜んでくれるなら\(^o^)/

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