「風が吹けば桶屋がもうかる」という3段論法を知る方も多いと思います。風が吹き埃が舞い、人が目を悪くし三味線弾きが増え、三味線作りの為に猫が減り、その為にネズミが増え風呂桶をかじる、といった論法です。確率からいうとほとんど「こじつけ」で、現代にあっては当てはまらない部分もありますが、なるほど面白い理論の展開だな、と思います。
さて、この例は極端かもしれませんが、理屈の上では「風」と「桶屋」の「かかわり」が「無い」わけでなく、ほんの僅かではあるが「かかわり」がある、ということでしょう。
それでは、これはどうでしょう。
<自宅の近所で前を歩く人が歩行者信号を無視して、車に撥ねられて大けがをしたが、自分は信号を守ったので無事であった。救急車を呼んだが、赤の他人なのでそれ以上の「かかわり」は無く、無関係である>
これについては、何の「かかわり」もないと考える人がほとんでしょう。しかし、もし次のように間接的に「かかわり」があったら、どうでしょう。
<自分の子どもを含む多くの子ども達が、普段その人が度々信号無視をするのを見ていた。やがて自分の子どもは他の多くの大人や友達が信号無視をするのを見ているうちに、自分もやっていいんだと思うようになり、あるとき信号を無視して事故に遭ってしまった>
これは、自分の子どもが不運なのであって、信号を無視する大人たちとは何の「かかわり」も関係も無い、と言い切れるでしょうか?もし大人達がきちんと信号を守り、手本となっていれば、自分の子どもは事故に遭うこも無かったのでは、と考えられないでしょうか?先の、桶屋の話よりは実に単純な論法ですが、その分発生する確率は高いのです。
さて、このような大人が悪い例はいくらでも考えられます。しかしなにか行動するときにいちいち「もし~、~れば、~たら、~かもしれない」などと深く考えすぎると、身動きが取れなくなってしまうでしょう。しかも人間の一生のなかでは自分にとって「悪いかかわり」もあれば「良いかかわり」もあります。考えてみれば先々どう展開するか分からない「かかわり」が一番多いのです。
とはいえ、現実として(私の中では真理として)人間社会を含め、地球というものは総て「かかわり」でできているのです。もちろん、それは目に見えるものではありません。人は父親と母親の「かかわり」があって初めて生まれ得ます。その父親や母親はさらにその親が、またさらにその祖先が・・・と、総てが「かかわり」です。生まれた後はというと、赤ん坊や子どものうちは他の誰かに「かかわって」面倒を見てもらわないと命さえ絶えてしまうでしょう。さらに大切なことは、「かかわる」のは人間だけではない、ということです。例えば毎日の「食事」ですが、穀類や野菜があり、お肉があり、魚があり・・・とこれらは総て他の生き物との「かかわり」です。もっと根本的な「かかわり」として「空気」や「水」、「太陽の光」だって、道端の石でさえ、総て「かかわり」なのです。
このように人間を含む総てのものが「かかわって」存在しています。さらに「かかわり」は人間を始めとした生物の一時の命をも超えます。一人の人間が「生きている」間に成した「かかわり」は、親から子への「かかわり」をはじめ、他の人々、動植物、果ては空気や水、太陽にいたるまで、一人・ひとつの例外も無く、影響を与え合うのです。
なにを当たり前のことを小難しく・・と言われるかもしれませんが、「かかわり」(を考えること)がどんどん希薄になっているといわれる現代です。大切なのはこの目に見えない「かかわり」こそが「実体」であり「真理」であると認め、自分の「生き方」の根底に据え置くということでしょう。簡単にいえば、お金などの形がある、目に見えるものは実は価値あるものではなく、本当の価値は目に見えない「かかわり」の中にこそ存在する、ということでしょう。自分は「一人」ではなく、今、一時の命があり、いま一時の挙動も何かに「かかわる」。そして一時の命は「かかわり」によって永久に宇宙規模で繋がってゆく。ならば、「今」が良ければいい、「自分だけ」が良ければいい、自分には「関係ない」・・として生きるのではなく、「かかわって」「感動」するこころを持ち、繋がる命に「感謝」し、「多方面への影響」を考えて生きるべきではないでしょうか。おわり
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