2010年、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。>>「私は日本人であり、それを誇りに思い、日本を愛している」・・たったこれだけのことを、今の日本人のどれだけの人が言えるでしょうか。こんなことを言う私だって、日本以外の国をよく知っているわけではなく、外国の知識といえば学校教育から始まり、今にあってはマスメディアの一方通行の情報の聞きかじりが元になるものであり、下手をすれば小学生にだって敵わないと思っています。しかし、そんな私でも自分を含む今の日本人に言いたくて言いたくて仕方がないことがあるので、ここに愚痴をこぼしてみることにしました。
私は自分の外国無知を棚に上げてでも「日本人の心根」は世界の模範となり得る素晴らしいもの、と信じています。私自身は無宗教ですが、「日本人の心根」は決して何かの経典に記されているものではなく、宗教的なものでもありません。また高名な哲学者による思想や主義・主張でもありません。あくまでも日本人一人ひとりの(自身が気付いてもいない)今となっては奥底に眠っている心根なのです。この心根が日本人だけでなく人類の普遍的真理として世界中に広がれば、今、人類に降りかかる様々な問題(環境、戦争、飢餓、経済など)も解決すると信じています。
さて、その「日本人の心根」とはなんでしょうか。
それには日本の自然環境と、日本に古くから伝わる文化、伝統、情緒、宗教観などが深く係わっています。というより、結論的ですがこれらが「日本人の心根」の本質だと考えています。
第一に、日本の自然環境の豊かさと、その自然に対して畏敬の念を抱き、合掌することができる心です。日本人の生み出した俳句や短歌などがその証明でしょう。自然の豊かさと人間の暮らし、そこに儒教・仏教・神道などが深く交わり、万物に対する無常観として受け入れられ、長い歴史の中で無意識のうちに心の奥底に根ざしたのです。たとえば虫の音や、川のせせらぎ、木々の息吹、野の花のささやき、雨音、雷鳴、果ては深閑とした静寂にまで「音」を感じるような豊かな心があるのです。木々の葉一枚にさえ、己の人生や命を重ね見ることができる感性を持ち合わせているのです。それは他のどの国を見ても稀有な、儚い命を思いやる優しい感性です。日本人は自己の一個体の命を超えて、万物に対して有限の命を認め、その命が総て繋がりを持っていることを、理屈を超えた真理として守り伝えてきたのです。総ての命の儚さを受入れてこそ、だからこそ今を輝くことができる、そんな心根です。
第二に、お金を賤しいものと見る心です。先のように、自然を愛し、その無常観を自らの命と重ねる心根がありますから、お金などの物質文化に強く執着しないのです。命の儚さ故の尊さが心に根ざしていますから、お金のようにそれ自体なんらの変化もしない無機質なものに、価値を見出さない心根です。
第三に、弱く、儚いものに対するあわれみ、いたわり、己の命とそれらを重ねて感じることができる心です。弱い者に強く接することは恥ずべきこと、という心根です。
さて、この三つの心根が、日本人の心の奥底に「眠って」いるのです。残念ながら、ヨーロッパに巻き起こった自由・平等思想と産業革命は「経済至上主義」「論理至上主義」となって人類の致命的欠陥(「自由・平等」と言いながら結局は「不自由・不平等」を好み、慾得を抑えられない)を突き、明治維新以降の日本人のこころを蝕み、誇るべき心根は少しずつ眠ってしまいました。そして外国と同じ土俵に上げられてしまった日本国民は慾得に駆られ、悲惨な戦争を引き起こしました。結果、敗戦国としてアメリカにほぼ統治されたと言っていい時代があった為、日本人の「心根の眠り」はさらに深いものになってしまいました。
ここで、民主主義や資本主義の根底にある自由・平等の考え方を否定しなければなりません。そもそも、命あるものに自由も平等も無いのです(別に封建制や独裁制、全体主義、軍国主義、社会主義、共産主義を擁護するつもりは毛頭ありません)。人間には本来、自由と平等はあり得ない(というより、それらはそもそも人間には実現不可能で、両立もしない)と考えます。
相当な誤解を生みかねないこの考えですが、その根拠を説明します。
まず「自由」についてですが、一般的には「自由は良いこと」「目指すべきもの」と考えられているようです。ところがこの「自由」が曲者です。「さあ、人間は皆自由です。生きるために何でもしていいのです。」と言われたら、どうしますか?その瞬間おそらく、あなたはその場に立ち尽くしてしまうでしょう。それどころか、向こうから歩いてくる人間が、自分を殺そうと考えているのではないか、という恐怖すら湧いて来るでしょう。そうです、皆が「自由」になった途端そこは「疑心暗鬼」と「弱肉強食」の獣の世界になってしまいます。自由であることは、己の命の保全から、衣食住はもちろん、生きる上での総てのことを自分一人で考え、行動しなければならないということなのです。そしてそれが「不可能」であることは容易に想像がつくでしょう。そこには必然的に「不自由」と同義の「ルール」と「束縛」が必要(望まれる)になってくるのです。人間というものは「自由な世界」では「獣」と同じでしかないのです(獣だって自由ではないですね)。例えば、青信号を待つのは不自由と考えたとしましょう。車がほとんど通らない田舎道なら別ですが、ひっきりなしに飛び交う車の間隙を縫って命をかけて(自由に)向こうに渡るよりも、機械的に変わる信号を待って(不自由)一定のルール(不自由)のもとに安全に渡った方が「楽」なのです。もうひとつ、「義務教育は不自由」と考えたとしましょう。それが無くなったとたん「自由」かもしれません。おそらく商魂たくましく沢山の「教育サービス」が溢れることになるでしょうから、我が子の特性を見極め、定まらない対価を払い、それらを「自由」に選ぶことの難しさに耐えきれなくなり、一定年齢になったら小学校、中学校で勉強する、と決められた「不自由」のほうが、如何に楽かわかるでしょう。ついでに、自由と自由は必ずぶつかります。例えば知る自由は隠す自由と、言う自由は聞かない自由と、見せる自由は見ない自由と、選択の自由は排除する自由と・・・厭になりますね。
次に「平等」についてです。「平等」もよく言われる「正しくて良いこと」です。しかし、そもそも人間は生まれたときから「平等」ではありません。まず、男と女が違います。身体の作りが違い、体力も違う。女だけが子どもを産む、のは平等でしょうか?それから、大きさ、が違います。大きな人間は沢山の空気を吸う、のは平等でしょうか?お金のある家に生まれた子どもと、そうでない子どもは平等でしょうか?A小学校とB小学校に行く子どもは平等でしょうか?所得が多いほど税金が高いのは平等でしょうか?消費税率が一律なのは平等でしょうか?・・・こんな理屈を言っている自分が嫌になるのでこの辺で止めておきます。
そして「自由」と「平等」の両立についてです。「自由」に大学を選び「自由」に勉強して「自由」に職業に就いたら、給料が「不平等」だった。「自由」に働いて沢山のお金を稼いだら、そうでない人と比べて「不平等」な沢山の税金を取られた。
どうでしょう。これは屁理屈ではなく「現実」だということがおわかりでしょう。このような曖昧で実現不可能な「自由・平等」の上に成り立った資本主義・民主主義とはいったい何者でしょうか?
何が言いたいか・・・環境問題・教育問題など現在、世界中の資本主義・民主主義国(そうでない国が良いというのではありません)が抱えている問題はこの資本主義・民主主義と、それを支える曖昧で実現不可能な自由と平等の概念、誤った論理によってもたらされたものだと考えます。(ただし、正しい精神にコントロールされた論理は必要であると考えます)。
長くなりましたが、まとめます。
論理に支えられたお金至上主義では、世の中が荒廃する一方になります。隣にいる人間が信用できなくなり、野に咲く花や、美しいもの、小さいもの、弱いものに心が震えなくなるのです。自由と平等という概念は必要ですが、それを論理で成り立たせようとしてはいけません。逆に非論理(文化・伝統・情緒)をしっかりと身につけ、自由と平等を反面(生き物にはあり得ない)として捉え、不自由、不平等を無常観に置き換え、当然のこととして生きる人生観を養い、その上に論理を教育によって積み上げるのです。それには古来の文化や伝統に触れ、学び、「祖国日本」を知り、「日本人の心根」を今一度呼び覚まし、今度は歴史上の失敗に学んで、不自由さと慾得を真の自由と平等(無常観)で克服しなければならないのです。その為に、家庭や地域では文化・伝統・思想・宗教から情緒を育み、学校では論理・科学・歴史・芸術・道徳を教えるべきだと考えて已みません。
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