【海が水を産み、森が育み、川が海に還す・・かぶと虫牧場2010】お手伝い

 12月12日、地元中学校区の青少年相談員により、2005年に始めてから6年目になる「かぶと虫牧場」が開催された。20人を超える子どもたちとその保護者が参加してくれた。かぶと虫などの幼虫は、森の木々や草の落ち葉が腐葉土となるとそれを食べて糞をし、その糞を微生物が分解して栄養豊かな土に還し、土は再び木々や草を育て葉を茂らせ、木々や草は私たち人間の命を支える酸素を作り出すという食物連鎖と自然循環の一翼を担う重要な仕事をしていることを子どもたちに簡単に説明した後、さっそくワイワイと作業開始。二つの牧場のうち片方を掘り返し、幼虫を一旦集め、新しく腐葉土を入れた牧場に戻し、最後に落ち葉を山盛りにした。
 森の草木も土も様々な虫たちも、そして雨も水も、食物連鎖や自然循環の大事な一員なのだ。豊かな森は、土壌に沁み込んだ雨を栄養分豊富な水に生まれ変わらせ、その水は川を経てさらに豊かになって海に供給され、そこで海の生き物たちを育むというさらに大きな食物連鎖と自然循環の一員でもある。海の生き物もまた私たち人間にとって貴重な資源であることは承知の通りだ。
 人間にとって必要不可欠なこれらの自然環境なのだが、直接的に分かり辛いのか、今の大方の大人達にはこれらの自然環境を大事にしなければ人類が存続できない、とまで深く考えることは難しいようだ。或いは漠然と考えてはいても、それは政治や科学のテーマだと考える向きが多いようだ。
 理屈を並べ立てても仕方がない。しかし、子どもたちの未来に「人類破滅」への道標を付ける訳にはいかない。地道ではあるが、これは今の大人が未来の大人たちに引き継いでいかなければならない、最重要課題であると考えている。そしてそれは紛れもない「愛情」の一つの形でもあるのだ。<子どもたちの未来に繋ぐ環境を考えよう>

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絶景の紅葉!養老渓谷の大自然に抱かれて( ^^) _旦~~

 落葉樹の赤や黄色と常緑樹の緑、それに空の青が織りなす色合い。さらに冬に備えて枝を離れたその主役たちは、その色艶を残したまま、山々にろ過され透き通った聖水を運ぶ養老川の水面に散り、さながら春爛漫の桜の花筏ならぬ「紅葉筏」となって人里に秋の終わりと冬の訪れを告げる。

 山々の紅葉、水面に映る紅葉、流れる紅葉筏、当に「絶景」と言うに相応しい、大自然の命の営みに、こころ洗われ目が覚めるような心もちでした。改めてこの大自然に感謝するとともに、人間はこの大自然の歯車でしかないことを忘れかけているのでは、と改めて思い至った1日でした。

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「汁は少なめ、お椀一杯のお湯」

 よく駅構内の立ち食い店に寄る。うどんや蕎麦を食べたり、ラーメンを食べたりなのだが、そこで気になることがある。自分も含めて、ほとんどのお客が汁を残すのである。私は全部飲み干してしまいたいのであるが、塩分の過剰摂取が気になってどうにも飲めない場合が多い。もちろん、時間が無くて飲めないということもある。これは、立ち食いに限らず、街中のラーメン店やそば屋でも同じようで、まるで汁を残すのは「作法」であるかのようだ。
 私が美味しいと気に入っている千葉駅の立ち食い店で、勇気を出してその希望(提案)を店員さんに話してみた。「ここの汁は美味しいと思うのだが、濃すぎる。好みもあるだろうから、手渡し口で希望により汁を少なめにし、食べるときに湯やそば湯などで好みに応じて薄める、などの手立てはどうだろうか?」と提案してみた。店員さんの答えは丁寧であった。「次から言っていただければ対応します」とのこと。
 塩分を摂りすぎる、人前でどんぶりで顔を被って飲み干すのに抵抗がある・・・麺類の汁は残すのが当たり前なのだろうか。日本人に古くから親しまれる汁料理。味噌汁・吸い物に始まり、麺類、煮物、鍋物などバラエティー豊かである。しかし汁を残して捨てる文化になってしまったのは、いつからなのだろうか。鍋物など、残った汁にご飯やうどんなどを入れて食べ切ることを勧める料理店は珍しくない。「味付けに対する自信の顕れ」「もったいない」などの精神が息づいていて好感が持てる。残り汁として捨てられるのは水、醤油・だしなどの調味料、そして料理を作ってくれる人の手間とこころ。それらを食べ残して捨てる習慣・・・それは、豊かさの象徴かもしれないが、果たして人類を含めた地球環境の将来(もちろん、愛する子どもたちの未来でもある)や食への感謝を考えるとき、伝えて行くべき文化?とは断じて思わないのである。
 今日も、外食ではラーメンのスープは塩分過剰だと言って絶対に飲み干さない妻が、家ではスープが気に入ったインスタントラーメンの残り汁にご飯を入れて食べている・・それを嬉しそうに見つめ、手を伸ばして味見をしたりなどする私。あっ!そうそう。お気に入りの千葉駅の立ち食い店。次の日にいつもの「得かけうどん」を何食わぬ顔で注文し、普通に出された物を食べていると、なんと、店員さんが後から、お椀一杯のお湯と汁さじをトレイに載せて持ってきてくれたのだ。私は嬉しくなって礼を言い、もちろん汁は総て飲み干し、店を出るときにはこころから「ご馳走様でした。美味しゅうございました。」と言ったものだ。それからというもの、「汁は少なめ、お椀一杯のお湯」のオジサンになってしまっている。
おわり

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【生態系が変わる?そんなのカンケェネェ~~か?】

 めだかの保護活動などをしている私だが、最近まで何故生態系が変わることが良くないのか、答えを見つけられなかった。漠然と「よくない」とは思っていたが、何故よくないのか想像できなかった。外来種が在来種を存続の危機に追いやる。捕まえためだかを別の水系に放流する。すると何故いけないのか。そもそも、人間が世界中に棲み、人や物が自由に行き来できる現代では、それらは自明の理というものではないのか?また、放っておいても、生態系と言うものは変わって行くものではないのか?
 しかし、最近ようやく納得のいく答えが見つかった。きっかけは、稲作を勉強しようと調べているうちに偶然見つけた「不耕起移植栽培」という農法であった。岩澤信夫さんが20年以上に渡り提唱、実践してきた農法である。岩澤さんが生物資源型農業と位置付けているこの農法は、不耕起・冬季堪水を基本としたもので、田んぼやその周辺に生息する動植物の働きを資源としてとらえ、その働きによって稲作を行おうという考え方である。今までの、化学肥料や農薬、機械に頼り、効率ばかりを求める工業と言っても良いような稲作とは180度異なるものである。総ての自然の営みに逆らうことなく、決して欲張らず、化学の力に頼らず、稲の本来の生きる力をありのままに育む、というものである。
 ミジンコ、トンボ、クモ、カエル、カマキリ、ミミズ、めだかなど、田んぼに本来生息していた生き物の営みを見つめ、も類などの植物をとり除かず、それらを尊重する。決して殺さず、刈り取らず、ありのままにして見守る。するとどうだ、害虫に強く、台風や冷害にも負けず、しかも味の良い立派な実りをもたらすというのだ。田んぼを耕さずに、農薬も、肥料も使わず、冬には水を張る。今までの稲作の常識からしてみれば信じがたいことだが、すでに20年以上をかけて全国で実証済みの事なのである。
 この農法の主役は、決して人間や化学ではない。水であり、虫たちであり、植物たちなのだ。人間も本来は自然の恵みを頂戴する自然循環の一部だった。それは、人糞堆肥や土葬などのかつての営みが物語っている。
 さて、それが「生態系」とどう関わるのか、察しがついたかもしれない。私たち人間は効率を求め欲張るあまり、土を耕し、生き物の卵や幼虫を切り刻み、余分な酸素を土中に混ぜ込み、生物の食物連鎖を断ち切って来た。苗は時間を縮めて過保護に育て、十分に生きる力が備わる前に植え付ける。その結果、弱体化した稲に天敵の居なくなった害虫が群がる為、農薬で駆除する。食物連鎖を断ち切った為に足りなくなった養分を化学肥料で補う。
 世界中の稲作面積に占める日本の稲作面積は0.02%。世界中の稲作に使われる農薬の55%を日本が消費している事実をご存じだろうか。虫たちを農薬で殺し、除草剤を撒き、化学肥料で無理やり引き伸ばした稲。これが今の日本の稲作の現実である。
 もうお分かりだろう。自分たちだけ勝手に自然循環の役割を放棄し、にもかかわらず他の動植物の命を弄んでいる。生態系を壊しているのは人間なのだ。生態系とは、地球の環境そのものであり、自然循環の仕組みそのものなのだ。人間だけの為にあるものではないのだ。
 愚かにも人類はまだそれに気付かない。しかし「生態系を乱すのはよくないこと」という言葉は一人歩きしている。外来種の流入は農薬を使って絶滅した在来種の隙間に入り込んだ、または生産効率を上げるために人為的に導入された、または快楽や慾得の為に招き入れた、人災なのだ。真の問題は、そこに生息していた動植物がなくなり、それを化学で繕う結果として人類を含む地球環境全体が崩壊することなのだ。
 これは、政治の問題か?NO!である。それを望む人類全体の問題である。言い換えれば、人間一人ひとりの足元の問題なのだ。沢山のなかから好みのものを、おいしく、安全に、いつでも、どこでも、楽しく、好きなだけ食べたい・・・これが、今の人類の姿である。
 私の生家は新潟の寒村の農家であった。幼いころは当たり前に田んぼにいた蛍やめだかやアマガエルが、年を追うごとに少なくなっていった記憶が頭から離れない。今にして思えば、当時楽しみにしていた村の鎮守のお祭りが、自然の恵みに感謝するものであった筈なのに、戦後の高度成長の陰に隠され、快楽と、慾得の為に利用された農民の、一時のストレス解消の営みであったのではないかと思われてならない。
 おわり。

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秋桜・・・コスモスではありません( ^^) _U~~

<NPO法人 都川の環境を考える会>が数年前から都川土手に植えている桜が、なんと、今(撮影10月16日)、咲いています。「狂い咲き」なんて無粋な表現は似合いませんねぇ。背高泡立草の黄金色をバックに、いい雰囲気なんです。どうですか、行ってみませんか、秋の都川。

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街のこころ・・・【子どもたちの通学する道】

 毎朝の通勤途上でバス停で3つ分、行きかう人たちに「おはようございます」、子ども達には「おはよう、行ってらっしゃい」と声をかけながら、手にした袋にはごみを拾いながら歩いて丸7年が経ちました。
 何故そんなことをしているのか。「あいさつ&ごみ拾い運動」(今では「あいさつ&不要物移動」と呼んでいます)として始めたことなのですが、当の私が始めてから気付いたことについて傾聴していただければ幸いです。
 当たり前に考えれば、子ども達が毎日通る道なのだから綺麗にしておきたい、ということなのですが、さらに深いところを考えて見ましょう。
 子どもたちは、ほぼ毎日、同じ道を通って登下校しています。その「毎日」通る道がゴミだらけ、通行上も危険だらけ、行きかう人も無言で殺伐としている、としたらどうでしょう。そんな生活環境で、情操形成において一番大切な十数年間を育つとしたら・・・。
 言うまでもなく人は見て、聞いて、嗅いで、触って、話して、生きています。原風景という言葉がありますが、子どもたちの心象風景として通学路は重要な一要素であることは間違いないでしょう。
 道を花で一杯にし、車を遮断し、小旗を振って沿道で声援する、というのではないのです。大切なのは、誰がごみを拾い、誰が交通整理をし、誰が送り迎えをし、誰が声をかけるか、ということではなく、子どもたちの原風景作りに思いやりをもってキャスト(主役・脇役・裏方問わず)として参加し、街全体として子どもと、その将来に関わる、ということなのです。
 通学路のごみを無くし、安全を確保し、住人の明るい笑顔とあいさつが交わされる中を子ども達に毎日歩いてもらいたい。今では「あいさつ&ごみ拾い運動」は「街のこころ」を作るためのもの、と考えています。子どもはいつまでも子どもではありません。「凛として清々しい」風景をこころに焼きつけながら育ってくれたなら・・。そして、そのこころ意気がまた次の世代に繋がれていったら・・。
 「街のこころ」は政治や法律では作り得ません。「街のこころ」作りは決して他人の為のボランティアなどではなく、間違いなく自分の為であり、愛する子どもたちの将来の為、そして、人類の為、地球の為でもあるのです。自分の部屋をより広く、自分の家族をより多く。そう心がけて生きたいものです。おわり

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GONETって、何だ?

 GONET=ゴミゼロネット。今更ですが私たちのグループの名前です。千葉県中に広がったこのグループはいったい、何をするグループなのか???実は、私も分かっていないのです。
ただ、これだけは言えます。
1.ごみを拾ったり、掃除をしたり、廃棄物を片付けたり、不法投棄を監視したりするのが目的ではない。
2.ごみ削減や3Rを推進するのが目的ではない。
3.みんなで集まって、机上の空論を振り回すのが目的ではない。
4.あれが正しい、これは間違っている、と結論を出すのが目的ではない。
5.行政や企業に圧力をかけたり、逆に支援したりするのが目的ではない。
6.ボランティア活動や金儲けをするのが目的ではない。
7.みんなで集まって、飲み会を開くのが目的ではない。
8.無闇に会員を増やすのが目的ではない。
9.表彰や、肩書きを得るのが目的ではない。
10.特定の宗教や政治や思想を持つのが目的ではない。
 さて、上のように「ではない」は言えますが、「である」がなかなか言えないのです。
 私はGONETに入会してから、日課として毎朝30分程度、通勤途上ですれ違う方々に挨拶をしながら、ごみを拾って歩いています。しかし、これとて、別に目的があるわけではありません。毎朝、自宅を出てから県道をバス停で3つ分、すれ違う方々に「おはようございます」、通学途中の子どもたちに「おはよう」と挨拶しながら、手に持った袋に目についたごみを拾って入れながら歩く、ただそれだけなのです。
 ただそれだけを続けて7年が過ぎました。その甲斐あってか、私の部屋を広くすることができました。私は見かけによらずきれい好きで、昔から自分の部屋だけは小まめに掃除し、きちんと片づけていたつもりです。その習癖は今でも変わっていないと思います。ただ、昔は、自分の部屋から出たごみを、自分で処分したことはありませんでした。そこが変わりました。毎朝、袋に集めたごみを所定の袋に分別し、行政のルールに従って自分の身の回りから見えなくしています。この活動を始めた当初は「あいさつ&ごみ拾い」と呼んでいました。しかし、いつからか私はこれを「あいさつ&不要物移動」と呼ぶようになりました。
 部屋が広くなると、同居するものも増えました。昔はあくまで自分一人の部屋でした。結婚し家族を持ち、さらにこの活動を続けていたら、どんどん同居するものが増えていったのです。
 GONETを通して考え、身体を使い、様々な関わりを持つうちに、私の部屋は広くなり、同居するものも増えました。
おわり。
 

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2袋分(約400kg)のキャップ回収\(^o^)/

ただ置くのも芸がないので、貼り紙をして宣伝?

 すっかり地域に定着したキャップ回収。8月のふるさとまつりで大量に集まったペットボトルキャップで駐車場は軽ワゴン車が埋まるほどの山積みになっていました。その後もあちこちから持ち込んでいただいたり、商店会のお店を回って回収したりしていましたが、もはや限界(*_*;という9月7日、ようやく申し入れていた回収日が到来しました。妻と5時に起きだし、蚊取り線香を3つ焚いての大奮闘で、トン袋にピッタリ2つ分ありました。約1時間で袋が2つ一杯になり、作業完了。猛暑の夏といっても、さすがに9月ともなれば朝夕は涼しいこともあり、出勤前にそれほど体力を使わずに済みました。

 さて、我が家では駐車場にキャップを保管していることもあり、回収の当日の朝に駐車場の前の路上にトン袋を広げて、小分けにされた袋から異物を取り除きながら移してゆく地道な作業を行っています。当初は長男も手伝ってくれたのですが、最近は朝が辛そうなので妻と二人で作業をしています。

 最近、この作業をしていて嬉しいのは、早朝とはいえ道行く人たちが見慣れたこの早朝作業に「おはようございます」「ご苦労様です」と声をかけてくれるようになったことです。これは私たち夫婦にとって何よりの励みで、妻もまんざらでもないようです。普段、私の家の前を通る住人は、駐車場に積み上げられた、軽ワゴン車の高さを優に超える山の様なキャップの袋を横目に見ながら通り過ぎています。最初は「何かの業者がキャップを扱っていると思った」などという声が聞かれましたが、商店会やまつりなどの地域行事でキャップを回収していることが認知されてきた今では、その窓口としての我が家を皆が知ってくれたようで、声をかけてくれるご近所の方々が増えてきました。地道な活動の中で、本当に嬉しいことなのです。

 さ~~~~あ!またガンバルゾ!\(^o^)/

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ふるさとまつり開催。ペットボトルキャップ持ち寄りも定着。

会場の入り口に回収場を設けてある。すっかり定着した感がある\(^o^)/

 今年も8月27日・28日の両日、地区のふるさとまつりが盛大に開催された。猛暑の夏だが、夏休みも終わりに近づき、子ども達の心にまたひとつよい写真が残せたと思う。

ご覧のとおり\(^o^)/チリも積もれば・・・おっと。キャップも積もれば資源となる!

 私の係りは、数年前から始めたペットボトルキャップ回収場の整理係りである。普段から商店や学校の協力でペットボトルキャップを回収しているこの地区では、この活動がすっかり定着している。キャップはもはや可燃ゴミではなく、再利用できる貴重な資源なのだ。回を重ねるごとに回収量も増え今年は100kgをかなり超えたと思われる。会場をを訪れる家族連れがそれぞれキャップを溜めこんだ袋をわざわざ抱えて持ってきてくれる。量の多寡ではない。ごみとして燃やすものではない、と考えてくれることがうれしい。「ありがとうございます」と自然に感謝の気持ちが溢れ出る。合言葉は「子ども達の未来に繋ぐ環境を考えよう」である。

 たったひとつの1gほどのちっぽけなペットボトルキャップ。だが、これを無意識に可燃ごみとして捨てるのと、再利用されることを知った上で回収に協力するのとでは「地球の将来に託す思い」に雲泥の差がある。それはそのまま、子どもたちへの愛情でもある。「自分だけよければ」は「今だけよければ」と同じ。つまり、将来のことなど考えず、今を楽に、楽しく過ごせればそれでいいということ。地球環境の将来を思いやるとは、子どもの将来を思いやることとまったく同じなのだ。親たちのツケを払わされるのは子ども達なのだ。

 人が人としてできる最高の行いは、自分以外の生き物や物を慈しむこと。「お金が落ちていないかと下を向いて歩くより、遥か先の一本の「気になる木」の行く先を案じて生きたいものである。

 それにしても、たくさん集まった\(^o^)/・・・地区の方々が、「ひとつ気付き、そしてさらに次へ」向かってなにか行動する。そんな繋がりこそが環境問題のいちばんの解決策だと信じている。ご協力ありがとうございました。

 たかがキャップ、されどキャップ。あなたは、ふるさとの為、子どもたちや地球の未来の為、何よりも自分の為に、なにを始めますか?

いが

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NPO法人と協働して「アドベンチャー都川」開催

都川に鮎がいる!鮎の生態をお勉強。「スゴイ!鮎って滝を登るんだね!」

 7月17日(土)。松ヶ丘GONETとNPO法人都川の環境を考える会、青少年相談員、千葉県・千葉市が協働して第6回「アドベンチャー都川」を開催しました。夏休みが始まると共に、本当に絶好のタイミングで梅雨が明け、雨の心配が一転、天気が良すぎる心配(熱中症や脱水症など)をしなければなりませんでした。もちろん、それも考慮して小屋の利用やテントの用意などを行なってきましたが。それにしても猛暑!暑い!。そんななか、約50組の親子連れが参加してくれました。

竹を鋸(のこぎり)で切ってマイカップ、端材を鑢(やすり)で削ってマイ箸!

自分で作ったマイ箸とマイカップで食べる流しそうめん!早く食べたい!

 今年は、水中カメラを使った鮎のライブ映像と鮎の生態学習・川の生態系観察・竹を自分で切ったり、削ったりして作るマイ箸とマイカップ・公園内の樹木に自分で書いたプレート付け・圧巻はなんと、6.6mの青竹を4レーン並べた超ロング流しそうめん!!(ついでに、流したそうめんは揖保の糸でした(^_^)!

6.6mの若竹を4レーンの大流しそうめん

んっっめ~~~~!\(^o^)/

 子ども達の元気な声が飛び交う中、大人たちは猛暑に少しグッタリでしたが(*_*;・・それでも、事故もなく無事終了しました。 

ひたすらジッと耐える・・水中カメラで鮎のライブ映像を公開!

  参加してくれた子ども達、保護者の方々、そしてお手伝いいただいた方々(千葉県・千葉市の職員の方々、川戸、星久喜、松ケ丘の青少年相談員、当NPOの会員さん)本当にお疲れ様でした、そしてありがとうございました。

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