山・川・海 VS 人間・ごみ・・・「人間」って誰のこと?

地球上の山や川、海の生物(人間以外の生物)はごみを作りません。地球は同じ生き物が暮らす場所なのに、人間だけが「ごみ」と称して「人間の為に人間が作り人間にとって必要でなくなった物を」を放り出しています。
人間は「人工物」と称して、人間が考え出した人間だけが使うもの、を自然界の資源を使い、必要なとき、必要なだけ作り、人間にとって不必要になると「ごみ」と名前を代えて捨て去ります。捨てるといっても消えてなくなるわけではなく、自然界に放置するのです。「人工物」は自然循環という重要な仕組みを無視した科学の力で作られているので、次第に「生物」の存在をも危うくしていきます。これが生態系(生物バランス)の破壊です。
愚かにも人間は「生物」のなかに「人間」が含まれることを理解していないのです。人間は他のどの生物も犯していない「地球上のあらゆるものとの共生の道」を踏み外し、人間が地球上でもっとも賢く、偉く、人間だけでも生き残れると勘違いし、「己が己自身と地球全体を破滅させる道」を歩んでいるかの様です。

ここで大切なことは「人間」が誰であるか、ということです。ここでもまた人間は愚かにも『それは自分以外の「人間」』と考えてしまうのです。人間とは誰であるか。それは「自分」に他なりません。  重要なことは「一番大切なことは、目に見えない」と考えることだと思うのです。真に必要なことは人間が思う正誤ではありません。目に見えぬものを見る教養(きっとこれが「愛」ではないでしょうか・・?)を身に付け、地球上のあらゆる問題を「自分の問題」と捉え、常に自分を含めて客観視し、あらゆるバランスを考え、その上で自分にできることをする。それこそが「人間の証明」だと考えます。  他に責任を押し付けない、他の責めにしない。人間は地球上の生物の中で唯一、自己以外の存在を理性として認めることができる生物です。一方で人間しか持ちえない科学が進めば進むほど、人間は己を含む生物や地球環境を駆逐していくという、皮肉な運命を辿っていくのでしょうか・・。

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中学生たちと合同で都川の清掃

12月17日。星久喜中学校の生徒たちと合同で星久喜橋周辺で川の清掃活動を行った。自転車やテレビなどの投棄物があちこちに散乱する光景は、子どもたちの心にどのように映っただろうか・・・。間違いのないことは、拾う人間は捨てない人間である、ということである。

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キャップ回収日は我が家の恒例の早朝共同作業

今年も地区の盆踊り会場でペットボトルキャップ回収を行った。2日間行われるイベントだが、今ではすっかり定着し、約200kg(回収1回分)を集める規模になった。
回収日は早朝(5時くらい)から一家総出(高校生の娘は朝練のため不参加)の肉体労働だ。駐車場の奥にバリケードのように積み上げられた袋から、回収用のコンテナバッグ(容量200kg用)に一つ一つ不純物?(プルタブ、ごみ、アルミキャップや既定外キャップなど)を選別しながら移していく。今回は盆踊りもあったため、2袋分の回収だったが、それでも少し残ってしまった。
車ほど場所も取らず通行には支障ないが、数時間路上に置くのも気が引ける。が、ご近所の方々も理解してくれているようだ。
仕上げにお手製の能書きを書いたポスターを貼ってアピールする。
こんな作業を恒例にしてくれる家族に感謝なのである<m(__)m>。
さあ!この後はいつものようにごみ袋とごみハサミを持って出勤だぁ~~\(^o^)/

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毎日使うバス停の・・


ゴミとはなにか・・考えさせられますね~
吸い殻入れのすぐ傍に捨てられる吸い殻の風景です。
①吸い殻入れに入れられればゴミではないのか?
②バス会社ではなく、近所の善意で設置されたものだが、そこに吸い殻入れがあることは良いことなのか?
③吸い殻入れに他のゴミ(紙屑など)が投げ込まれているのでやむなく吸い殻を路上に捨てたのではないか?
④たばこは残り何センチでゴミか?
⑤吐き出される煙は、灰はゴミか?
⑥たばこに火をつけて吸い始めた時点からゴミ化が始まるとすれば、ガムは噛み始めた時から、お風呂の水は入れた時から、車は乗り始めた時から、電気製品は使い始めた時から・・・。すると、人間も生まれた時から・・かも?

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「ごみって何だい?・・・中途半端なわたし」

 

 風で壊れたのか、ビニール傘が路上に落ちていた。もしかすると使い捨ての感覚で、雨が降り出せばコンビニかそこらで買い、雨が止めば、壊れていなくとも捨て去るのかもしれない。骨が折れ、ビニールが破れたそれを拾ってなんとか結わえてごみ袋の隅に突っ込み歩き出した。
 スーパーの脇にある使われなくなった2階への階段。家の定まらない人々か、荒地を歩き先を望む教養を得る機会を逸した少年たちか、たばこの吸い殻と酒の空き缶の数で重要度合いの分かる会議の後が賑やかである。
 路上にはたばこの吸い殻が一番多い。そこでたばこについて考えたりする。火をつけた瞬間からニコチンとタール混じりの煙は人間の体内と空気中に、灰は路上に。そしてフィルター前何センチか決まっているわけではないだろうが、かなりの部分を残して使命を終える。路上に落ちている吸い殻のほとんどが踏み消した痕跡もなく、まだ煙を放っているか、自ら燃え尽きるか自然消火しているものだ。ひと箱400円を超えるというたばこ。1本20円として、長さに比して、15円程度は体内と空気中と路上へ、5円程度は捨て去られる運命。いや、良く考えれば20円総てを捨てているような気もする。そんなたばこだが、吸っている方々には一定の効能があるらしいし、これによる国の税収は大きく、またどんな商品でもそれなりの経済効果はあるだろう。良く考えれば、たばこのように(煙となるなどして)元の形を留めないが人間の役に立っているものは沢山ある。食物、電気、水、空気、太陽光・・・。だがこれらは必要な部分を人間が頂戴している(恩恵にあずかっている)というのが正しい表現であろう。
 路上に落ちている(放置されている)ものは他にもありとあらゆるものがある。空き缶、空き瓶(空きではなく、中身が残ったものや吸い殻の詰まった空き缶なども多い)はもちろん、お菓子の包装、使ったティッシュ、スーパーの袋、焼き鳥や団子の串、花弁、葉っぱ、犬・猫・鳥・人間の糞、お金、電池、携帯電話、テレビ、椅子、食べかけの弁当、ボールペン、帽子、ハンカチ、Tシャツ、下着、生き物の遺骸、人、交通事故跡の供え花、言い残したバカヤロー、言い忘れたありがとう、町のこころ・・・
 開店前でまだ1台も留まっていない洋品店の駐車場には、雨に濡れて重量感のある段ボール箱が立方を留めて「とん」と置いてある。大きさに躊躇したが、思い立って近づき、濡れて剥がれやすくなった底面の重なりを剥ぎ取り、四角く畳んで端からクルクルと丸めてごみ袋へ。予想通り丸めやすかったが、これも予想通りズシンと重たい。そうだ、次の日曜日には畳んで保管してある我が家の段ボールを子ども会の廃品回収に出さねばならない。
 洋品店前の横断歩道に可愛らしい飾りのついた子どもの髪を留めるゴム輪が一つ落ちていた。左脳は躊躇しつつも動作は躊躇なく拾ってごみ袋へ。何が連想させたか左脳の回路は、過去の記憶を引き出してきた。いつだったか子どもの手袋を片方。子どもの靴が片方というのもあった。これらはごみ川柳をひとつ二つ生み出してごみ袋へ投げ込まれた。子どものハンカも時々拾うが、学校名と名前が書いてあれば暇を見て学校に届けるが、あまりに汚れていれば広げてみることもせずにごみ袋行きである。ごみと落し物の分かれ目は何かと問われれば、応えに窮してしまう。
 3・4年前に路上で拾ったパンダ柄の扇子は行き場を失い、通勤で持ち歩く私のパソコンバッグに納まり、夏の汗引きに一役買っている。行き場とタイミングを逸して「預かっている(いた)」ものは他にもたくさんある。まだ使える傘、景品のマグカップ、記憶している限り最高額で50円玉などの小銭。ポケモン(らしい)の小さなゲーム?おもちゃ?、生き生きとした一輪の花、等々。
ペットボトルは路上に落ちていれば、左脳が痛みながらも可燃ごみにしてしまう。気が向けばキャップを外してポケットに入れるかどうかといったところ。
 ウンチだかおしっこだか、使い終わって丸めてある紙オムツは、結構よく拾う。その度に左脳と右脳が連携して、その親子像を瞬時に映像化する。「日本の先が心配だ」と思う。よせばいいのに、、、そう思う。だが、我が家でも子どもたちに、認知症の母親に、紙オムツは便利に消費していたではないか。使用後の行先としては、放置されて誰かが拾いごみ袋に入れるか、最初からごみ袋かの違いはあっても、大差ないように思う。
 これもいつのことだったか、しかも2・3度。(恐らく)若い女性の下着を拾う。洗濯物が飛んだか?それとも・・と左脳と右脳がよろこんで絵を描くが、しかし、行動としては迷わずごみ袋へ。そういえばコンドームも2・3回は拾った。使用済みで丁寧に口を結わえてあるもの、未使用らしいが、ベロンと広がったもの。
 どこかの庭木が道路にせり出して、金柑の実が落ちている。この類のものにはいつも何故か左脳が誤った反応をしてしまう。落ち葉や花弁も同じなのだが、どうしてもごみ袋に入れる気にならない。良く考えれば、アスファルトに根付いたり、腐葉土となり土に還ったりするはずもないのに。袋に放出され、口を結わえられ、畑に撒かれることなく焼却場行きとなった前出の「種」も同じか・・・男の性に、苦笑いしたりする。なぜか近年話題になって消えていった「葉っぱのフレディ」を思い起こした。
 2週間ほど前、4・5年も放っておいてジャングルと化した庭の金木犀の枝を、本当に重い腰を上げて、大量に、思い切って、切り出した。途端に庭と、妻の顔が明るくなった。よかった、と思った。次にいつ切り出すか、は別問題となるだろうが・・。が、ほどなくして切り出した大量の枝に気分は暗澹とした。結局、丁寧に束を作って分けて、家庭ごみとして住民税の見返りとした。秋の訪れを告げるころになれば甘い香りを漂わせてくれる金木犀だが、その枝葉は己の足元で土に還ることもできずに焼却されるのだ。
 私の好物の納豆。醤油をかけ、よく練ってネバネバにして炊き立てのご飯に載せて食べれば至極のひとときである。空いたパックにご飯を入れ、周囲についた納豆エキスをご飯にまぶして食べると、これも絶品である。これは、高校生になる娘にも伝授したが、品のある我妻は顔をしかめる。長男に至っては、納豆の臭いさえ我慢できないという。そしてパックはごみ箱へ。
 歯磨き、顔洗いはカップや洗面器は使わず、水を蛇口から手ですくって使っている。これも無精な性格から来ていて自責ものなのだが、どうしても朝の時間帯はあと5分の早起きができず、その結果、水の無駄は分かっていながらの確信犯である。こんな私が自分でも許せないのが、マイ箸を得意げに持ち歩いていること。もちろん使ってはいるが、自己矛盾の自己嫌悪である。だが救いもある。大型のペットボトルのキャップ部分を如雨露にするスグレモノ。これは妻の掘り出し物だ。
 近所の第3公園の樹木が道路を覆い、鬱蒼としている。役所の担当課に要請して伐採してもらう。ごみ減量を目指す千葉市としては切った枝木をどうするのか気にしたりする。私にその資格があるのかどうか・・・。
 ペットボトルキャップは可燃ごみ扱いであるが、回収すれば立派なリサイクル資源だという。最寄りのごみ集積所に小さなネット袋を吊り下げてもらうように町内会の班長さん方にお願いしている。そうだ!そろそろ駐車場に山になったペットボトルキャップが雪崩を起こして車を埋める前に、回収をお願いしなくては。
 数年前、中学校のプール下の土手に首輪をした猫の死骸。市の窓口に電話すると、ごみとして処分するのだという。違和感を覚えながらも、路上に墜落した雀や昆虫の遺骸を迷いながらもごみ袋に入れる自分自身が頭をもたげ、違和感を押し殺してしまった。
 50年近くも昔、生まれ故郷の寒村の土葬の風景がはるかな記憶にある。9年前、父親の火葬のかまどのスイッチを入れたのは私自身だった。相方に先立たれ、7年間前に同居を始めた私の母は、私が介護放棄をしたため、この春から特別養護老人ホームへお預け(・・?)している。
 シーシェパードなる環境保護団体が、日本の捕鯨を合法的に妨害し、鯨と共に生きてきた町の住人の生業が危機的だという・・・
 NHK BS3ではしばしば、日本の里山の抒情的な風景がこんな私の心を動揺させる・・・。
 今日もごみ袋を下げた私は、通学の子どもたちの後姿を見送る。
おわり

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苦しい時の神頼み・・・「神様」って?

 人間とは調子のいいもので、意気揚々で順風満帆、総てが順調、などという時は「神様」などのことは一切忘れている。それでも(レジャーとして)初詣などに行けば大判振る舞いで千円、一万円と賽銭を投げ込んだりする。ところが一歩つまずき、苦しくなると「神様、どうかお願いします」となる。二礼二拍手一礼・・・慇懃に頭を垂れ、手を合わせて願い事をする。
 さて、そもそも「神」とは何者であろうか・・。困ったときに一心に祈れば、願いを叶えてくれるような存在なのだろうか・・。私は今さら、だが考えてみた・・・
 「神」とは畏怖をもって感謝の対象とするべき存在であって、決して、人間が自己中心的で一方的な願い事をするようなものではないのではなかろうか。例えば天災があれば神からの警鐘(メッセージ)と捉え、深く考え、人類の行き過ぎた所業を反省する。また農作物、水産物などが豊作、豊漁であれば、自然のめぐみを神に感謝する。つまり、神とは海や大地、山、川、水、空気・・・あるいは動植物など、およそ宇宙に存在する人類以外の万物の象徴ではないだろうか。そしてそれらは決して人間の思い通りになることはない。だが、人間はそれらの恩恵によりいのちを繋ぎ、種を繋いでいるのは紛れもない事実である。神とは、宇宙や大自然そのものであり、時には牙を剥き、時には恵みをもたらすもので、人智を超えたものなのである。故に、恐れもし、感謝もする。それが「祈り」という形にもなる。
 だが人類はその短い歴史のなかで科学という両刃の剣を持ってしまった。科学を過信するあまり、傲慢で、利己的、独善的となり、人類だけで地球が成り立っていると錯覚するに至ってしまった。人類以外の生物や自然環境は、人類の支配下にあるという甚だしい勘違いをしているのである。そのおそるべき錯覚の前に、神への恐れも感謝も吹き飛んでしまい、「祈り」は形骸化し「願い」という利己的なものになってしまったのである。
※ここで断っておくが、私は無宗教であり宗教家でも思想家でもなんでもない。新興宗教の教祖様になる気もない※
人類は、人類だけでその命を繋ぐことはできない。このことを肝に銘じておかなければならない。人類を含む動物も、植物も、空気も、水も、土も、岩も・・・地球上の総てがバランスをとって、必要性を持って存在する。そして、それらは決して人間の思い通りにはならない。
 さて、神は人間以外の万物の象徴と言ってきたが、もう一つ象徴しているものがあると考える。朝令暮改、自己矛盾のようであるが、それは「人間個々人自身」である。日本の多くの神社のご神体は「鏡」だという。ここで神道で言うご神体の謂われを解説はできないが、言うまでもなく、鏡とは総てのものをありのままに映してしまう。つまり、人間にとっては「己自身」を映すことを意味する。あなたが鏡に自分を映したとき、鏡の中のあなたが「神」なのだ。前述の「宇宙に存在する万物の象徴であり、畏怖を持って感謝し、思い通りにならないもの」が神とすれば、鏡の中の自分も「神」だと思えてくるのではないだろうか。
 さて、時間を作って、じっくりと鏡の中の「神」に願いを唱えてみてはどうだろうか?
おわり

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都川水の里公園「めぐみの里田」完成

5月8日(日)
 松ヶ丘GONETとNPO法人都川の環境を考える会では、千葉県・千葉市の環境保全事業に協力する形で、都川水の里公園内の田んぼで田植えを行いました。「冬期湛水不耕起移植栽培」という農法で、環境に調和する農法として注目されている農法です。
 農薬は一切使わず、田んぼに生き物を呼び戻し、しかも丈夫でおいしいお米がとれ、さらには、水の浄化までしてしまうというこの農法ですが、食物連鎖の法則に則った素晴らしい農法なのです。
 手伝ってくれたのは地元星久喜小学校の児童や桜林高校の生徒たち。
 まずは、食物連鎖のしくみを簡単に説明し、田んぼと微生物、昆虫、小魚、鳥の関係を説明しました。プランクトン、昆虫、鳥、そしてその糞や死骸は決していらない、汚いものではなく、稲の生育に重要な役割を果たしていること、それらのつながりによって、自然の恵みとしてのお米がとれることなどを説明しました。
 最後に偶然見つかったミイラ化したウシガエル?の死骸を教材にし、「この世の中にいらないものなんてないんだ」と子どもたちに語りかけました。子どもたちの純粋なこころに何かが届いたらいいな~、と強く感じました。
 参加、協力していただいた皆様、ありがとうございました。

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第6回 都川マイ桜植樹会

2月27日、都川マイ桜植樹会。NPO法人都川の環境を考える会と毎年共同で行っているこのイベントも6年目となりました。
晴天に恵まれたこの日、約60本の桜を川戸橋から上流に向かって植えました。桜林高校のボランティアの生徒や、たくさんの地元の親子が参加してくれました。ありがとうございました。
これまでに植えた桜は、累計で約300本となりました。

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2011年頭に・・【与生を生きる】色即是空・空即是色

2010年大晦日の落日

 2011年、明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお付き合い願います。
 五十を過ぎますと、あまり「慾」がなくなってきます(良いのか悪いのか・・)。特に欲しいものもなく、物欲に関してはゼロに近いかも・・(^_^.)。
 年頭に限ったことではありませんが、これからの余生・・否「与生」を生きるよりどころとして、最近こころに決めた言葉?(教え)があります。無宗教の私ですが・・「色即是空・空即是色」を道標としたいと思います。
 形があるものは実は拘るべきものではなく、目に見えないものが実は永遠の形を成す。本当に大切なものは何か・・・という問いへの私なりの答えでもあります。
 命、愛、縁、繋がり、感謝、歓び、誇り、悲しみ、怒り、憎しみ、妬み・・・これらは目に見えないのですが、実はこれが現世を形作る基本であり、これなくしては形ある総ての物質も成りえないのです。逆に形あるものは、お金、肉体、草木などあらゆる物質ですが、これらはどれも永遠ではありません。形のあるものは実は無きに等しく、形のないものこそ物事の本質である、と解釈しています。哲学的でもありますが、この歳になると妙に分かった気になってくるのです。
 それにしても・・あ”~~~私の肉体も、「空」なるものなのだが、これが朽ち果てた時に残る「精神」は「色」を成すのであろうか・・・甚だ疑問な、今日この頃の壮年男なのであります・・・(‘_’) おわり

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中学生たちと都川の清掃・・子どもたちの未来に残すものは・・

 12月18日(土)、地元の星久喜中学校の生徒たちと合同で川掃除を行った。部活動の合間の活動であったが、相当数の生徒が参加してくれた。大人が捨て、子どもが拾うのが今の社会。私たち大人が子どもたちの未来に残せるものはいったい何があるだろうか。お金、事業、思想・・・しかし、一番大切なものは一つである。人間が生きるためになくてはならないもの。それは、地球であり、宇宙である。人間の欲望と科学は厳然たるその事実を覆い隠してしまおうとしている・・・。

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