人間とは調子のいいもので、意気揚々で順風満帆、総てが順調、などという時は「神様」などのことは一切忘れている。それでも(レジャーとして)初詣などに行けば大判振る舞いで千円、一万円と賽銭を投げ込んだりする。ところが一歩つまずき、苦しくなると「神様、どうかお願いします」となる。二礼二拍手一礼・・・慇懃に頭を垂れ、手を合わせて願い事をする。
さて、そもそも「神」とは何者であろうか・・。困ったときに一心に祈れば、願いを叶えてくれるような存在なのだろうか・・。私は今さら、だが考えてみた・・・
「神」とは畏怖をもって感謝の対象とするべき存在であって、決して、人間が自己中心的で一方的な願い事をするようなものではないのではなかろうか。例えば天災があれば神からの警鐘(メッセージ)と捉え、深く考え、人類の行き過ぎた所業を反省する。また農作物、水産物などが豊作、豊漁であれば、自然のめぐみを神に感謝する。つまり、神とは海や大地、山、川、水、空気・・・あるいは動植物など、およそ宇宙に存在する人類以外の万物の象徴ではないだろうか。そしてそれらは決して人間の思い通りになることはない。だが、人間はそれらの恩恵によりいのちを繋ぎ、種を繋いでいるのは紛れもない事実である。神とは、宇宙や大自然そのものであり、時には牙を剥き、時には恵みをもたらすもので、人智を超えたものなのである。故に、恐れもし、感謝もする。それが「祈り」という形にもなる。
だが人類はその短い歴史のなかで科学という両刃の剣を持ってしまった。科学を過信するあまり、傲慢で、利己的、独善的となり、人類だけで地球が成り立っていると錯覚するに至ってしまった。人類以外の生物や自然環境は、人類の支配下にあるという甚だしい勘違いをしているのである。そのおそるべき錯覚の前に、神への恐れも感謝も吹き飛んでしまい、「祈り」は形骸化し「願い」という利己的なものになってしまったのである。
※ここで断っておくが、私は無宗教であり宗教家でも思想家でもなんでもない。新興宗教の教祖様になる気もない※
人類は、人類だけでその命を繋ぐことはできない。このことを肝に銘じておかなければならない。人類を含む動物も、植物も、空気も、水も、土も、岩も・・・地球上の総てがバランスをとって、必要性を持って存在する。そして、それらは決して人間の思い通りにはならない。
さて、神は人間以外の万物の象徴と言ってきたが、もう一つ象徴しているものがあると考える。朝令暮改、自己矛盾のようであるが、それは「人間個々人自身」である。日本の多くの神社のご神体は「鏡」だという。ここで神道で言うご神体の謂われを解説はできないが、言うまでもなく、鏡とは総てのものをありのままに映してしまう。つまり、人間にとっては「己自身」を映すことを意味する。あなたが鏡に自分を映したとき、鏡の中のあなたが「神」なのだ。前述の「宇宙に存在する万物の象徴であり、畏怖を持って感謝し、思い通りにならないもの」が神とすれば、鏡の中の自分も「神」だと思えてくるのではないだろうか。
さて、時間を作って、じっくりと鏡の中の「神」に願いを唱えてみてはどうだろうか?
おわり
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