風で壊れたのか、ビニール傘が路上に落ちていた。もしかすると使い捨ての感覚で、雨が降り出せばコンビニかそこらで買い、雨が止めば、壊れていなくとも捨て去るのかもしれない。骨が折れ、ビニールが破れたそれを拾ってなんとか結わえてごみ袋の隅に突っ込み歩き出した。
スーパーの脇にある使われなくなった2階への階段。家の定まらない人々か、荒地を歩き先を望む教養を得る機会を逸した少年たちか、たばこの吸い殻と酒の空き缶の数で重要度合いの分かる会議の後が賑やかである。
路上にはたばこの吸い殻が一番多い。そこでたばこについて考えたりする。火をつけた瞬間からニコチンとタール混じりの煙は人間の体内と空気中に、灰は路上に。そしてフィルター前何センチか決まっているわけではないだろうが、かなりの部分を残して使命を終える。路上に落ちている吸い殻のほとんどが踏み消した痕跡もなく、まだ煙を放っているか、自ら燃え尽きるか自然消火しているものだ。ひと箱400円を超えるというたばこ。1本20円として、長さに比して、15円程度は体内と空気中と路上へ、5円程度は捨て去られる運命。いや、良く考えれば20円総てを捨てているような気もする。そんなたばこだが、吸っている方々には一定の効能があるらしいし、これによる国の税収は大きく、またどんな商品でもそれなりの経済効果はあるだろう。良く考えれば、たばこのように(煙となるなどして)元の形を留めないが人間の役に立っているものは沢山ある。食物、電気、水、空気、太陽光・・・。だがこれらは必要な部分を人間が頂戴している(恩恵にあずかっている)というのが正しい表現であろう。
路上に落ちている(放置されている)ものは他にもありとあらゆるものがある。空き缶、空き瓶(空きではなく、中身が残ったものや吸い殻の詰まった空き缶なども多い)はもちろん、お菓子の包装、使ったティッシュ、スーパーの袋、焼き鳥や団子の串、花弁、葉っぱ、犬・猫・鳥・人間の糞、お金、電池、携帯電話、テレビ、椅子、食べかけの弁当、ボールペン、帽子、ハンカチ、Tシャツ、下着、生き物の遺骸、人、交通事故跡の供え花、言い残したバカヤロー、言い忘れたありがとう、町のこころ・・・
開店前でまだ1台も留まっていない洋品店の駐車場には、雨に濡れて重量感のある段ボール箱が立方を留めて「とん」と置いてある。大きさに躊躇したが、思い立って近づき、濡れて剥がれやすくなった底面の重なりを剥ぎ取り、四角く畳んで端からクルクルと丸めてごみ袋へ。予想通り丸めやすかったが、これも予想通りズシンと重たい。そうだ、次の日曜日には畳んで保管してある我が家の段ボールを子ども会の廃品回収に出さねばならない。
洋品店前の横断歩道に可愛らしい飾りのついた子どもの髪を留めるゴム輪が一つ落ちていた。左脳は躊躇しつつも動作は躊躇なく拾ってごみ袋へ。何が連想させたか左脳の回路は、過去の記憶を引き出してきた。いつだったか子どもの手袋を片方。子どもの靴が片方というのもあった。これらはごみ川柳をひとつ二つ生み出してごみ袋へ投げ込まれた。子どものハンカも時々拾うが、学校名と名前が書いてあれば暇を見て学校に届けるが、あまりに汚れていれば広げてみることもせずにごみ袋行きである。ごみと落し物の分かれ目は何かと問われれば、応えに窮してしまう。
3・4年前に路上で拾ったパンダ柄の扇子は行き場を失い、通勤で持ち歩く私のパソコンバッグに納まり、夏の汗引きに一役買っている。行き場とタイミングを逸して「預かっている(いた)」ものは他にもたくさんある。まだ使える傘、景品のマグカップ、記憶している限り最高額で50円玉などの小銭。ポケモン(らしい)の小さなゲーム?おもちゃ?、生き生きとした一輪の花、等々。
ペットボトルは路上に落ちていれば、左脳が痛みながらも可燃ごみにしてしまう。気が向けばキャップを外してポケットに入れるかどうかといったところ。
ウンチだかおしっこだか、使い終わって丸めてある紙オムツは、結構よく拾う。その度に左脳と右脳が連携して、その親子像を瞬時に映像化する。「日本の先が心配だ」と思う。よせばいいのに、、、そう思う。だが、我が家でも子どもたちに、認知症の母親に、紙オムツは便利に消費していたではないか。使用後の行先としては、放置されて誰かが拾いごみ袋に入れるか、最初からごみ袋かの違いはあっても、大差ないように思う。
これもいつのことだったか、しかも2・3度。(恐らく)若い女性の下着を拾う。洗濯物が飛んだか?それとも・・と左脳と右脳がよろこんで絵を描くが、しかし、行動としては迷わずごみ袋へ。そういえばコンドームも2・3回は拾った。使用済みで丁寧に口を結わえてあるもの、未使用らしいが、ベロンと広がったもの。
どこかの庭木が道路にせり出して、金柑の実が落ちている。この類のものにはいつも何故か左脳が誤った反応をしてしまう。落ち葉や花弁も同じなのだが、どうしてもごみ袋に入れる気にならない。良く考えれば、アスファルトに根付いたり、腐葉土となり土に還ったりするはずもないのに。袋に放出され、口を結わえられ、畑に撒かれることなく焼却場行きとなった前出の「種」も同じか・・・男の性に、苦笑いしたりする。なぜか近年話題になって消えていった「葉っぱのフレディ」を思い起こした。
2週間ほど前、4・5年も放っておいてジャングルと化した庭の金木犀の枝を、本当に重い腰を上げて、大量に、思い切って、切り出した。途端に庭と、妻の顔が明るくなった。よかった、と思った。次にいつ切り出すか、は別問題となるだろうが・・。が、ほどなくして切り出した大量の枝に気分は暗澹とした。結局、丁寧に束を作って分けて、家庭ごみとして住民税の見返りとした。秋の訪れを告げるころになれば甘い香りを漂わせてくれる金木犀だが、その枝葉は己の足元で土に還ることもできずに焼却されるのだ。
私の好物の納豆。醤油をかけ、よく練ってネバネバにして炊き立てのご飯に載せて食べれば至極のひとときである。空いたパックにご飯を入れ、周囲についた納豆エキスをご飯にまぶして食べると、これも絶品である。これは、高校生になる娘にも伝授したが、品のある我妻は顔をしかめる。長男に至っては、納豆の臭いさえ我慢できないという。そしてパックはごみ箱へ。
歯磨き、顔洗いはカップや洗面器は使わず、水を蛇口から手ですくって使っている。これも無精な性格から来ていて自責ものなのだが、どうしても朝の時間帯はあと5分の早起きができず、その結果、水の無駄は分かっていながらの確信犯である。こんな私が自分でも許せないのが、マイ箸を得意げに持ち歩いていること。もちろん使ってはいるが、自己矛盾の自己嫌悪である。だが救いもある。大型のペットボトルのキャップ部分を如雨露にするスグレモノ。これは妻の掘り出し物だ。
近所の第3公園の樹木が道路を覆い、鬱蒼としている。役所の担当課に要請して伐採してもらう。ごみ減量を目指す千葉市としては切った枝木をどうするのか気にしたりする。私にその資格があるのかどうか・・・。
ペットボトルキャップは可燃ごみ扱いであるが、回収すれば立派なリサイクル資源だという。最寄りのごみ集積所に小さなネット袋を吊り下げてもらうように町内会の班長さん方にお願いしている。そうだ!そろそろ駐車場に山になったペットボトルキャップが雪崩を起こして車を埋める前に、回収をお願いしなくては。
数年前、中学校のプール下の土手に首輪をした猫の死骸。市の窓口に電話すると、ごみとして処分するのだという。違和感を覚えながらも、路上に墜落した雀や昆虫の遺骸を迷いながらもごみ袋に入れる自分自身が頭をもたげ、違和感を押し殺してしまった。
50年近くも昔、生まれ故郷の寒村の土葬の風景がはるかな記憶にある。9年前、父親の火葬のかまどのスイッチを入れたのは私自身だった。相方に先立たれ、7年間前に同居を始めた私の母は、私が介護放棄をしたため、この春から特別養護老人ホームへお預け(・・?)している。
シーシェパードなる環境保護団体が、日本の捕鯨を合法的に妨害し、鯨と共に生きてきた町の住人の生業が危機的だという・・・
NHK BS3ではしばしば、日本の里山の抒情的な風景がこんな私の心を動揺させる・・・。
今日もごみ袋を下げた私は、通学の子どもたちの後姿を見送る。
おわり