めだかの保護活動などをしている私だが、最近まで何故生態系が変わることが良くないのか、答えを見つけられなかった。漠然と「よくない」とは思っていたが、何故よくないのか想像できなかった。外来種が在来種を存続の危機に追いやる。捕まえためだかを別の水系に放流する。すると何故いけないのか。そもそも、人間が世界中に棲み、人や物が自由に行き来できる現代では、それらは自明の理というものではないのか?また、放っておいても、生態系と言うものは変わって行くものではないのか?
しかし、最近ようやく納得のいく答えが見つかった。きっかけは、稲作を勉強しようと調べているうちに偶然見つけた「不耕起移植栽培」という農法であった。岩澤信夫さんが20年以上に渡り提唱、実践してきた農法である。岩澤さんが生物資源型農業と位置付けているこの農法は、不耕起・冬季堪水を基本としたもので、田んぼやその周辺に生息する動植物の働きを資源としてとらえ、その働きによって稲作を行おうという考え方である。今までの、化学肥料や農薬、機械に頼り、効率ばかりを求める工業と言っても良いような稲作とは180度異なるものである。総ての自然の営みに逆らうことなく、決して欲張らず、化学の力に頼らず、稲の本来の生きる力をありのままに育む、というものである。
ミジンコ、トンボ、クモ、カエル、カマキリ、ミミズ、めだかなど、田んぼに本来生息していた生き物の営みを見つめ、も類などの植物をとり除かず、それらを尊重する。決して殺さず、刈り取らず、ありのままにして見守る。するとどうだ、害虫に強く、台風や冷害にも負けず、しかも味の良い立派な実りをもたらすというのだ。田んぼを耕さずに、農薬も、肥料も使わず、冬には水を張る。今までの稲作の常識からしてみれば信じがたいことだが、すでに20年以上をかけて全国で実証済みの事なのである。
この農法の主役は、決して人間や化学ではない。水であり、虫たちであり、植物たちなのだ。人間も本来は自然の恵みを頂戴する自然循環の一部だった。それは、人糞堆肥や土葬などのかつての営みが物語っている。
さて、それが「生態系」とどう関わるのか、察しがついたかもしれない。私たち人間は効率を求め欲張るあまり、土を耕し、生き物の卵や幼虫を切り刻み、余分な酸素を土中に混ぜ込み、生物の食物連鎖を断ち切って来た。苗は時間を縮めて過保護に育て、十分に生きる力が備わる前に植え付ける。その結果、弱体化した稲に天敵の居なくなった害虫が群がる為、農薬で駆除する。食物連鎖を断ち切った為に足りなくなった養分を化学肥料で補う。
世界中の稲作面積に占める日本の稲作面積は0.02%。世界中の稲作に使われる農薬の55%を日本が消費している事実をご存じだろうか。虫たちを農薬で殺し、除草剤を撒き、化学肥料で無理やり引き伸ばした稲。これが今の日本の稲作の現実である。
もうお分かりだろう。自分たちだけ勝手に自然循環の役割を放棄し、にもかかわらず他の動植物の命を弄んでいる。生態系を壊しているのは人間なのだ。生態系とは、地球の環境そのものであり、自然循環の仕組みそのものなのだ。人間だけの為にあるものではないのだ。
愚かにも人類はまだそれに気付かない。しかし「生態系を乱すのはよくないこと」という言葉は一人歩きしている。外来種の流入は農薬を使って絶滅した在来種の隙間に入り込んだ、または生産効率を上げるために人為的に導入された、または快楽や慾得の為に招き入れた、人災なのだ。真の問題は、そこに生息していた動植物がなくなり、それを化学で繕う結果として人類を含む地球環境全体が崩壊することなのだ。
これは、政治の問題か?NO!である。それを望む人類全体の問題である。言い換えれば、人間一人ひとりの足元の問題なのだ。沢山のなかから好みのものを、おいしく、安全に、いつでも、どこでも、楽しく、好きなだけ食べたい・・・これが、今の人類の姿である。
私の生家は新潟の寒村の農家であった。幼いころは当たり前に田んぼにいた蛍やめだかやアマガエルが、年を追うごとに少なくなっていった記憶が頭から離れない。今にして思えば、当時楽しみにしていた村の鎮守のお祭りが、自然の恵みに感謝するものであった筈なのに、戦後の高度成長の陰に隠され、快楽と、慾得の為に利用された農民の、一時のストレス解消の営みであったのではないかと思われてならない。
おわり。
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